2022.11.12
未来の自分に向けて、誰かと共に食べる
- 執筆:
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平塚弥生
誰と食事を共にするのか、一人で考え事をしながら食べたい時もあれば、気心の知れた友と語り飲み同じ料理を食べる時も。祭りや結婚披露宴などでも食は欠かせないものであることは知られています。コロナ禍によって共に食べることを抑制された私たちがどう過ごしたのか。共に食べる食についていぶきさんであった事例と共に紹介します。
コロナ禍での人との距離
コロナ禍により、当たり前にされていた、仲間との飲み会や祭り、結婚披露宴などで行われる食事会も、共に食べることが感染を生む悪であるかのようにされた事もありました。
しかし、人との距離が離れ、共に食べることを抑制された私たちは、離れた場所でありながらもオンライン飲み会やオンライン〇〇といった新しい食事の仕方を生み出し誰かと共に食べようとし、新型コロナウィルスが流行したその年の流行語大賞に「オンライン〇〇」がノミネートされました。
職場や地域で慣例的に行われていた食事会や飲み会がなくなり、家族と共に食事をすることが多くなり。食事を共にすることがとても価値のあることで、貴重なものであるという体験もしました。
(すでに、収束に移行しているのか、最近では以前ほど貴重という感覚が薄れていますが。。。)
栄養摂取のための目的の食は、もちろん大事なのですが、それ以上に楽しむための食、人と繋がる為の食というのも生きていくためには重要な事もわかったのではないでしょうか。
誰かと共に食べる
同じ釜の飯を食うという言葉がある通り、食を共にするというのは、仲間同士の結束を生み、共感能力を高めると言われています。
人間が本来持つ、仲間と共に同じものを分けて食べるという能力が備わっています。
たとえば人間に近いとされるゴリラやチンパンジーに食べ物を与えるとそれぞれが、個々で食べます。
仲間同士で目を見て食べる、食べ物を仲間に差し出すということはできないのです。
人間は、同じものを仲間に分け、共に食べることで関係性を維持し、仲間のために何かをしてあげたいという思いになると多くの研究で言われています。
コロナも少し落ち着いた春のある日、日光町のお庭で、ポータブルのピザ窯を持ち込み、いぶきのお仲間のみなさんと「同じ釜のピザを食う」というイベント開催をしてみました。
一緒に窯に火を焚べ、ピザ生地を仕込み、みんなでトッピングをして焼いて食べる。
同じ釜(ピザ釜)で出来たものを共に作り、分け合って食べる。
仲間との結束を生むのではないかという狙いもありましたが、初めて使うピザ釜に悪戦苦闘。
火加減がイマイチわからず。
焦げたり、半生だったりとしましたが調整を重ね、2回目からは完璧に焼けるようになりました。
みんなで焼き上がったピザをカットして、分け合って食べます。
おいしい!といろんなところから声が上がり
みんなの食欲もすごい!!
その中で仲間の一人が
「子どもの頃、弟たちと庭でバーベーキューをしたなー」とつぶやきました。
「そうなの?そんなことがあったんやー」と職員の方と談笑されていました。
後から聞くと、普段は無口でコミュニケーションを取りづらい方だったそうで、過去の話をしたことに驚いたようでした。
記憶に残す食
私たちが普段よく言う「おいしい」と言うコトバは、味の良し悪しに使われることが多いのですが、昔のことを思い出した時に、味の記憶というのはほとんど残っておらず、誰と食べ、どこでどんなシーンで食べたのが記憶に残ります。
先ほどのエピソードは、まさに日光町の作業所の庭で仲間のみんなで釜を囲んで食べたことが、家族で食べたバーベキューと紐付き思い出した瞬間だったのでしょう。
どちらの体験も一人で食事をしていたら、記憶に残る事もなく、思い出すこともない単なる栄養摂取のための食事でしか過ぎないでしょう。
仲間と共に食べるという体験が、私たちの楽しみとなり、いつか「あの時みんなでピザを食べたな」という楽しかった記憶として思い出される事もあるかも知れません。
誰とどのようにして食べるか。の食事を将来のおいしいの記憶として残すつもりで食を楽しむのも、きっといいものですよ。
いぶきからのコメント
フードコンサルタントと伺った当初、シェアキチンや新商品つくりをビジネスで展開されている方と思い込んでいました。それがお話を重ねるごとに、「誰かとともにはぐくむ幸せ」をさりげなく日常の暮らしの中に染み込ませていくことを真剣に考えるエネルギーに圧倒され続けています。それも本当に楽しいうえにアカデミック。いぶきの活動は私が求めていたもの!といってくださることが嬉しくて、その輪がみなさんにも広がることを願い、連載をお願いしました。どうぞお楽しみください。