2022.11.03
誰もひとりでは生きていけない 親なき後をつなぐバトン 〜 Interview.001
- 執筆:
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篠田花子いぶき福祉会
いぶきの「エンディングノートプロジェクト」がはじまり2週間が経ちました。今週から定期的に、プロジェクトに関わる人たちのインタビューを配信していきます。いぶきの職員、当事者である障害をもつ方の親や兄弟、専門家…など、さまざまな人の視点から「親なき後」の問題について語っていきます。
障害があってもなくても、誰もひとりでは生きていけない。
だから、みんなの課題として考えたい。
そんな思いを、プロジェクトに関心をもってくださった方みなさんへ、次のバトンとしてつないでいくことを願っています。
最初の語り手はこのプロジェクトの発起人であり、今いぶきの中で最もこの問題に心を砕いている人物、いぶき福祉会の事業部長・森さんからはじまります。
聴き手・文 篠田花子(ヒトノネ)
かける言葉がない。待ったなしの状況なんです。
30人の仲間と15人の職員が、4月1日におはようございます、とはじまった。
僕がいぶきに入職したのが1999年、ちょうど第二いぶき(知的障害者が働く場や生活の場として通所する施設)ができた頃でした。いぶきは元々、障害のある人の親たちが中心となって共同作業所をつくったのがはじまりです。そこから1995年に社会福祉法人として知的障害者通所授産施設いぶきを開所し、次に新しくできたのが第二いぶき。親の会が寄付金集めに奔走し、多くの人の力をかりてできた待望の第二拠点でした。入職当時、第二いぶきの仲間(いぶきでは利用者のことを“仲間”と呼んでいます)は30名、職員は僕たち新人を含めて15名。その年の4月1日に「おはようございます、これからよろしくお願いします」という互いに慣れない状況で、仕事と生活の場をイチからつくっていきました。当時は僕も若く、仲間も学校を出たばかりの10代後半が多いなか、若いからこそのぶつかり合いもあったし、無茶もたくさんしました。仲間が20歳になったときには一緒にビアガーデンにいったし、僕が結婚式の前日に仲間とぶつかりあって顔に傷を作り嫁さんにため息をつかれたことも(笑)。心の底から笑ったし、泣いたし、怒ったし、“生きている実感”を味合わせてもらった毎日でした。そんななか、いつも僕たちを支えてくれたのは親御さんの存在でした。新卒入社で半人前の僕は、「こういう時はこうするといいよ」「森くんそれは間違ってるよ」と、先輩職員だけでなく、仲間の親たちからも支援の仕方を 教わり、支援者として育ててもらったのです。僕には、いぶきの仲間と親御さんへの恩があります。
支援者として親なきあとの問題に向かう
あれから20年以上が経ち、僕も40代になり、仲間も、そして親たちも20年歳を重ねています。仲間が40〜50代で親は70〜80歳のことが多く、今いぶきにいる約150名の仲間のうち、3分の1の50〜60名ほどが「親なきあと」の問題の当事者になっています。
保護者も高齢になっているため、病気などで通院や入院も増えたり、さまざまな事情で毎月のように「子どもを看ることができない日ができてしまって、預け先をどうしよう…」という相談が出てくるようになりました。
施設に通っている方は家で身の回りの世話をしてもらう必要がある方が多いので、たとえばお母さんが体の調子を悪くして不在なら、家で過ごすことができません。そういう場合、いぶきでそのまま夜も預かることができればよいですか、そうはいかない時も多く、長く続く場合には入所施設やグループホームという選択肢も出てきます。しかし、現状、その空き状況は厳しく、現実的にはショートステイで日々をつないで、空きが出た時点で施設などへ入ることになります。いぶきには、この地域で暮らしたいと願って通ってきた人が多いですが、場合によっては知らない土地の施設に行くしかなくなることもあり、選択肢がない状況なのです。
「なんとかできるよ」と嘘でもいいから言いたいけれど
もちろん実際は困窮したときに障害者本人が生きていく場はあって、なんとかなっていくことが多いのですが、たった今困ってしまった親に「いぶきでなんとかしてあげるよ」と無責任に言うことはできないんですね。数ヶ月待ってください、と言っても預け先の問題は解決しないし、じゃあグループホームを作ります、というわけにもいかない。
それにグループホームは制度上難しい部分もあって、事業所のスタッフに負担を強いることになる。仲間だけでなく職員も豊かになってほしいのに、職員が辛くなる。しかし、子が安心して生活できる場がないと親御さんは困ってしまう。親なき後に仲間はいつかどこかで生活の場を探さなければならない。親御さんがお亡くなりになったあとで「なんであのとき、なんとかなるよって言ってあげられなかったんだろう(今なんとかなっているのに…)」と後悔することもあります。
わが子が亡くなってから死にたいという親に、今何ができるんだろう
「うちの子よりも1日でいいから長く生きたい」「私が入院したら預け先がないから病院へ行くのも怖い」自分のことよりも子どものことが心配だから、と医療を拒否する人さえいる。そういう親の声に、僕はなんと言ってあげたらいいんだろう。そんな苦しさを覚えるたび、この問題の重さに頭を抱えます。でも、いつかは親なき後の問題に当たってしまう。薄々分かっているけれど、考えはじめると答えはでなくて後回しになってしまう。そういう状況にある人がひとりではなく、ほとんどの親が突き当たっています。こんなに困っている人が多いのに手を打てないって、やっぱりおかしいと思うんです。問題提起をしてすぐに解決することではないけれど、それでもみなさん今一緒に考えてみませんか、もう待ったなしの状況なんです、というのが僕たちの切羽詰まった思いです。
向き合い、解きほどいたら、光が見える
住まいの問題や財産、意思決定、生活環境や病気になったときのこと…。親なき後の問題は多岐に渡ります。その時になってみないとなかなか考えるのが難しいことではありますが、逆に言えば動けなくなってからでは遅いんですね。元気がある今だからこそ、ちゃんと整理して、言葉にして考えることができる。ひとつひとつ解きほぐしていけば、今イメージできなくて不安なことも少し道筋ができるんです。本人も親も家族も、少しずつ準備ができます。ただ、それを親ひとりでやるのは難しいことでもあるから、今回のプロジェクトではみんなでその問題に取り組み、支援者も伴走する機会を作りたいと思っています。
本人の願いを真ん中に、親も支援者も寄り添えるように、仲間の将来の生活を一緒に考えていく。エンディングノートは仲間本人の幸せのためのノートなんです。
社会のみんなで考えてほしいこと
障害者の問題は、本人と家族だけの問題。そう言ってしまえばおしまいで、家族の困りごとを全部家族に押し付けるのはすごしやすい社会とは言えません。子育てや介護も同じ、地域みんなで支え合っていくべきことで、親なき後の問題も同じです。家族の困りごとの解決策をいろんな人が参画して考えていくことで、人々の暮らしがもっとずっと豊かになると思うんです。親なきあとも「なんとかできるよ」って言ってあげられる社会にするために、みなさんにぜひ力をかしてほしいと思っています。
語り手プロフィール|森洋三さん
事業部長。東京埼玉出身。祖母の影響で日本福祉大学に行き、高齢福祉を学ぶ。ボランティアで参加した障害児サークルで障害福祉に興味を抱き、卒業後にいぶきへ入職する。以降、いくつかの現場を受け持ち、今のいぶきと歩んできたひとり。